2018-11-10 11.20.52


2人揃ってインドア派だった我が家で、まず僕が自転車に目覚めてしまい放っておくと休日に100km先まで行って帰ってくるような輩になってしまった。

約2年ほどかけて自然と肉体改造されていき、単純な体力としては同年代の中で平均より少し上くらいになったんじゃないかと思っている。

そして3ヶ月ほど前から嫁と山登りをする事になったのはいいのだが、そこにある純然たる体力差というものを感じている。

体力差のある2人が同じ行程を「うまく楽しみながら」進むのってなかなか難しい。



相手の身になる難しさ

2018-11-03 11.38.26

(碓氷峠・めがね橋の上から)


2018-11-10 12.36.01

(関八州見晴台から臨む関東平野)


体力差のあるグループでの山行(自転車であればライド)という内容の記事はよく見かける。

ない袖を振る事はできないので、そういう場合は体力がない側に合わせるというのが鉄則になっている。

無理をさせて辛いばかりの思いをさせたり、疲労からケガをしたりといった記憶が残ると結局「=楽しくないもの」と刷り込まれて離れていってしまう。

サポートしながらちょうどいい達成感をプロデュースしていくのが、余裕のある方の務めだ。


その辺の案配は難しい、かつては自分も体力がなかったはずなんだが、喉元過ぎればなんとやらで、自分は辛いとも感じないし息も切れないからどこからが辛いのかがピンとこないんである。

しかしその辺は、何度か回を重ね、その度に記録を取るようにしていってわかるようになってきた。

めがね橋の上を通った「アプトの道」というハイキングコースは距離こそ14kmと長いものの、全面舗装されているし高低差も300m程度なので楽にこなせたようだ。

関八州見晴台へ行った時は山道と舗装路のミックスで9kmほど、高低差は600m近くあった、この時は途中でかなりしんどそうにしていて、翌日から2~3日筋肉痛で身悶えしていた。

そういう客観的データを積み重ねてプランを立てていくしかない。


2018-11-10 14.52.30

(山道の途中で嫁が見つけた沢ガニ)


一方で、体力のない方もある方に対して実はけっこう気を使っているみたいなのだ。

「自分が足手まといになっているんじゃないか」

「自分がちょくちょく休むせいで楽しめないんじゃないか」

「自分の体力のなさが選択肢を狭めているんじゃないか」

向こうは向こうで、体力に余裕がある身にはなかなかなれないのでそう考えてしまうのかもしれない。


その実、楽しくないかと言うとこっちはこっちで普段と違うスピード感、目線を楽しんでいたりする。

嫁はキノコだの変な虫だの木の実だの沢ガニだのガサツな男がドシドシ歩いていると見過ごしていきそうな物を目ざとく見つけてくるし、ハイテンポで歩いている時は足を止めたくないので景色もほどほどで通り過ぎてしまうが嫁を待っている間にゆっくり写真を撮ったりもできる。

この間から、そういう事をはっきり言うようにした。

1人でガシガシ自転車に乗ったりピークハントしているのとは、これは別種の楽しみで、また別のホビーなのだ。


「この人、楽しめてないんじゃないだろうか?」と気を揉むと「この人、楽しめてないと思ってるんじゃないだろうか?」と気を使うし、そういう負の気遣いがループしていくと何となく沈んだテンションで進んでしまう。

いくつになっても相手の身になるのは難しい。




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